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記事一覧

保渡田の内出 ~(仮称)~

旧群馬町の城館・その⑳資料等で確認できた旧群馬町の城館は前回の保渡田城で一応おしまい。群馬町誌ではもう一つ稲荷台館が記載されていますが、そこはどう見ても所在が前橋市に入っているのでそちらの方で掲載します。で、今回の保渡田の内出ですが、これについて記載されている資料はなく、あくまで仮称です。なぜこのような場所をとりあげるかというと、たまたまこういったものを発見したため↓半分地中に埋まっていますが、「中...

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第30回 「平家納経」

1161年、崇徳上皇(井浦新)は配流先の讃岐で静かに悔恨の日々を暮らしていた。崇徳の弟・後白河上皇(松田翔太)は滋子(成海璃子)との間に憲仁(のりひと)親王をもうけていた。清盛(松山ケンイチ)の命により、兎丸(加藤浩次)たちが博多から宋の高価な品々を持って帰ってきた。清盛は兎丸を遅いと叱るが、兎丸は文句があるなら博多を都の隣に持ってこいと言い返した。清盛の義弟・時忠(森田剛)は平家の血をひく憲仁を次の帝...

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保渡田城 ~内藤昌豊居城~

旧群馬町の城館・その⑲城郭大系に縄張図付きで掲載されている保渡田城。内藤昌豊の居城でもあり旧群馬町の城館の中では一番知名度が高いと思われますが、それでも普通の城好きレベルの人は訪問はしません。というか知っている時点でかなりのレベルです。各種城関係のHPにもちらほら掲載されているこの城ですが、わざわざ訪問してHPに掲載しているような人は城好きの中でも余裕でマニアクラスに属すると思われます。保渡田町にある...

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依田屋敷 ~武田家臣団由来か?~

旧群馬町の城館・その⑱群馬町誌の「引間城」の項目に記載されている依田屋敷。ネット上の情報は皆無。引間城西北300mが該当地ということですが、文化財情報システムにも記載なし。ならば実際そのあたりになにがあるかと地図で調べると、まさにその地に「冷水公会堂」を発見!ということで、冷水公会堂。このような施設がある時点でここが該当地であると見てほぼ間違いなさげ。言うまでもなく遺構などありませんが、このクラスの城...

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中里屋敷 ~中里の火渡り~

旧群馬町の城館・その⑰保渡田城を探訪した時のこと。たまたま通りがかりに城館レーダーが反応する地形を発見。以前読んだ資料でこのあたりにも一つ城館があったはずという記憶の断片があったので一応写真に収めておき、帰宅して調べてみるとビンゴ。場所は唐沢川を渡る中里大橋の西方で、文化財情報システムにも位置が記されています。詳しくはそちら参照。南側から。代官屋敷と呼ばれるこの土地は1辺約100mの区画で、西北隅から...

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第29回 「滋子の婚礼」

1160(永暦元)年、平清盛(松山ケンイチ)はついに公卿(くぎょう)の座にのぼった。それは武士として誰もなしえなかった偉業であった。新しい世の始まりは清盛と後白河上皇(松田翔太)の長い双六遊びの新たなる始まりでもあった。六波羅の清盛の館には衣装も立派に様変わりした一門が集まっていた。清盛が公卿になることで一門もそれぞれ出世し、平家と呼ばれるようになった。一方、筆頭家人の家貞(中村梅雀)は病にふせっていた...

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三ツ寺館 ~古代豪族の大居館~

旧群馬町の城館・その⑯全国で初めて古墳時代の豪族の館として発掘された遺跡で、一般的名称は「三ツ寺Ⅰ遺跡」。中世の城館でないため群馬町誌の「城館址」の項目には記載なし。しかしこの遺跡、構造の面から見ても規模の面から見ても、並の中世の単郭方形館を優に上回るもの。以前にも原之城(6世紀中ごろの豪族居館)を掲載しているので、こちらも掲載しないわけにはいきません。ちなみに長野寺館の項目でも述べている通り、「三...

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熊野館 ~嵯峨谷消滅~

旧群馬町の城館・その⑮群馬町誌に記載されている「井出の五館址」の一つ。花城寺館から嵯峨谷を隔てた東方80mのところにあります。花城寺館の場所からみた熊野館方向。手前の水田が嵯峨谷の跡・・・ならよかったのですが、明らかに谷の痕跡ではありません。群馬町誌の図にはまさに「谷」と呼ぶにふさわしい地形が記されている「嵯峨谷」も、現在は元井出館に向かう途中にあったあの地形にわずかに名残を感じられるだけのようです...

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花城寺館 ~花の館~

旧群馬町の城館・その⑭群馬町誌に記載されている「井出の五館址」の一つ。元井出館の北東に位置し、徒歩でもすぐの距離にあります。花城寺館へ向かう途中の畑には花が咲き乱れていました。...

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元井出館 ~なりもりぼえん~

旧群馬町の城館・その⑬群馬町誌に記載されている「井出の五館址」の一つ。同道館の北方、「嵯峨谷」を隔てた井野川東岸にあります。群馬町誌の図には明確に記されているその「嵯峨谷」ですが、現地ではそれらしきものが見つかりません。唯一高崎北高裏門から西へ進んだこの地点が、若干谷地のような地形になっているところです。...

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同道館 ~北高の校庭となる~

旧群馬町の城館・その⑫群馬町誌に記載されている「井出の五館址」の一つ。県立高崎北高校の建設に伴う発掘調査によって確認され、現在同校の校庭となっています。 ということでやってきた高崎北高。校庭が同道館の館域なので、そちらに面している裏門へ。休日の昼下がりということで誰もいません。いつもなのかたまたまなのか、部活動をやっている生徒もいない。まあいたら写真撮りにくくなるだけですが。...

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第28回 「友の子、友の妻」

1159年12月、源義朝(玉木宏)は軍勢を失い、三人の息子ら数人と東国へ落ちのびようとしていた。しかし山中で三男の頼朝(中川大志)がはぐれてしまう。一方、謀反の首謀者である藤原信頼(塚地武雅)は後白河上皇(松田翔太)を頼り仁和寺に逃げ込んだが、そこへ平氏の軍勢が踏み込んだ。信頼は捕らえられ、藤原成親(吉沢悠)とともに清盛邸に連れてこられた。清盛(松山ケンイチ)はこの謀反人たちの処分を任されていた。清盛は...

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井出東館 ~新幹線の下~

旧群馬町の城館・その⑪村東館とも。群馬町誌に記載されている「井出の五館址」の一つ。高崎市井出集会所。館址地を推定すると、ちょうどこの集会所近辺が中心に来ます。...

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長野寺館 ~三ツ寺の由来~

旧群馬町の城館・その⑩群馬町誌に記載されている「三ツ寺の四館址」(石上寺館・長野寺館・天昌寺館・諏訪社館)最後の一つ。長野寺は大永年中(1521~27)長野業政によって開基されたが、箕輪落城の際武田氏に焼かれたといわれている(『堤ヶ岡村誌』)。群馬南中学校の北、唐沢川沿いにある「たかっぱし公園」。武田軍に焼かれたあと再建されていない長野寺の所在については文化財情報システムにも記載がなく、位置の特定が難し...

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棟高館 ~胸形神社~

旧群馬町の城館・その⑨ラクティス君とまわった最後の城館。棟高町にある胸形神社。かつて棟高村時代の村鎮守の社でした。ここを中心とした一帯が棟高館になります。「胸形神社は九州博多の宗像神社の分祀されたものであろう」(『上野国神明帳の研究』より)...

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石上寺館 ~箕輪城の兵器製造所~

旧群馬町の城館・その⑧三ツ寺公園内にある「三ツ寺堤」のたもとにある布留山石上寺。ここが群馬町誌に記載のある石上寺館となります。現在も寺院として残っていると位置の特定が容易くていいですね。...

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諏訪社館 ~武田軍に焼かれる~

旧群馬町の城館・その⑦ r25「堤下公園」の信号を西に入ってすぐの所にある諏訪神社。この場所が群馬町誌に記載のある諏訪社館となります(諏訪神社館とも)。諏訪社館は大永年間(1521~1527) に長野業政が築いたとされます。そして菅谷城と同様に、永禄六年(1563)武田軍により焼かれたという記録が残ります。...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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