記事一覧

金窪城 ~神流川合戦で炎上~

この日訪れた石碑級城館(ほとんど碑や説明板だけしかないようなところ)の紹介、まだまだ続きます~今のうちに紹介しておかないと、来月あたりはちょっと忙しそうなことになりそうなので・・・さて、続きましては県指定史跡・金窪城!金窪城跡は、神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名太瑯(たや)城とも呼ばれた。平安末期の治承年間(1177~81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治の構築と伝えられ、元弘年間(1331~...

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本庄城 ~古今の役所~

本庄城は弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められ落城し、後北条氏に服したが、家忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その嗣子信之の代に古河城に移封され、本庄城は廃された。元...

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西別府館 ~別府氏、西の居館~

別府城の西側、西別府地内にあったのが西別府館です。別府城の説明板にあった内容の再掲ですが、成田助高の二男である次郎行隆が平安時代末期に別府を本拠とし、その子二郎行助が西別府に居を構えます。行助は西別府氏を名乗り、5代頼重までこの館にあったといいます。...

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別府城 ~別府氏の居城~

別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。この城は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余m)四方で、周囲には巾約2~3mの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約2mの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形を見る事が出来る。太郎能幸に初まった東別府家は、それから11代目の...

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別府氏館 ~別府氏、東の居館~

別府氏と言っても、九州の有名温泉地とは全く関係ありません。埼玉県熊谷市、R17深谷バイパスとR17旧道に挟まれた地域は、かつて成田氏の一族・別府氏が本拠としていたところです。東別府にある香林寺もかつての別府氏の居館跡で、平安時代末期に別府能幸がここに居館を構えたのに始まります。...

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阿尾城 ~海上の要衝・断崖の城~

三方は断崖絶壁で海に囲まれ、陸に接する西側も急斜面の要害である。伝本丸には櫓があったと伝えられ、ここで海上交通を監視していたと思われる。築城時期については不明だが、天正年間には菊池氏が守っていた。上杉謙信没後は織田信長に従い、城主に「菊池右衛門入道、十六郎父子」の名前がある。その後、佐々成政に属するものの、成政と前田利家が対立すると前田方へ寝返り、一万石を安堵された。しかし慶長初め(1597頃)には廃...

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赤堀城 ~赤堀氏の居城~

別名今井城。粕川とその支流の鏑木川との自然地形を利用した箇所に築かれ、東西170m、南北350mの範囲を占める。一辺約80mの本丸を中心とした部分には、土居、堀、虎口があり、他にも二の丸、城域の外側には一小郭があったと考えられ、赤城山南麓に特徴的な本丸を囲郭式とした並郭城である。藤原秀郷の末裔とされる赤堀氏の居城で、赤堀下野守親綱の時に由良氏の幕下となり、その子影秀までは赤堀城に在城した。その後、後北条氏...

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倉賀野城 ~滝川一益、袂別の宴~

高崎市史No.124倉賀野は西上野と北武蔵の境界に位置し、利根川が流れ中山道が通過する交通の要地で、城は烏川左岸の河岸段丘上に立地する。東西800m、南北400mを城域とする。倉賀野氏は鎌倉時代の治承年間に武蔵児玉党の支流である秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。南北朝時代に倉賀野光行が館を改修し倉賀野城を築いた。戦国時代には城主の倉賀野行政が関東管領の上杉憲政に仕えたが、天文15年(1546年)の河越...

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真田本城 ~真田の里の司令塔~

真田一族発祥の地・真田の里にある真田本城は戦時用の山城であり、平時の政務機能は麓にある真田氏館に置かれた。真田盆地の対峰に要害の地戸石城 を望み、更に周囲の峰々にも数多くの支城群が連なり、単体の山城ではなく真田盆地を取り囲む山城群の司令部的存在と考えられている。 (wiki参照)...

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飯山城 ~上杉方、信濃出陣の拠点~

東部は千曲川、西部は山地に囲まれた地にあり、城郭は丘陵をならした平山城である。築城年は不明である。14世紀初頭は泉氏の居城であったが、後に高梨氏館を本拠とする高梨氏の支城となった。戦国時代に上杉氏が甲斐武田氏に対する前線基地として改修した。江戸時代には飯山藩の藩庁が置かれた。(wiki参照)...

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替佐城 ~武田方、対上杉前進基地~

替佐城は永禄7年(1564)ごろ築かれたと推定されている。北信濃の制圧をめざす武田勢とその防衛をはかる上杉勢が川中島平で激しく争った当時、武田方の前進基地として重要な役割をはたした。 この城は、上杉方の拠点飯山城へ通じる谷街道(千曲川通り)を、東岸からおさえる壁田城とともに西側からおさえるもので、また、北永江方面を経て上杉方の国境野尻城へも備えていた。この城は三つの曲輪(本丸、二の丸、三の丸)と、それを...

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高梨氏館 ~北信最大の中世居館~

北信濃地域の豪族高梨氏の館である。 背後の鴨ヶ嶽城を詰めの城としていた。 戦国初期に、高梨政盛が建て始め、政頼の代に完成したといわれる。戦国時代、武田信玄の勢力が北信地方に及ぶと、高梨政頼は上杉謙信を頼った。 武田氏滅亡後、本領の一部を回復したが、上杉景勝の会津移封に同行したため、城は廃城となった。 平成19年(2007年)2月6日、国の史跡に指定された。(wiki参照)場所は中野市役所の北東700mほど、中野立志館...

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穴水城 ~200年余の長家の居城~

長きに渡り守護大名畠山氏の重臣、長一族の居城であった。長氏の祖にあたる長谷部信連によって築城されたと伝えられる。畠山家滅亡後、一時期は上杉氏の手に渡るものの、天正6年(1578年)には長連龍が織田信長の支援のもと奪還に成功している(菱脇の戦い)。 1583年に廃城。(wiki参照)穴水町役場の東側背後の山が穴水城です。Mapionにもきっちり記載されています。登城口は役場前の道を南東に少し進んだところにあります(表示...

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向田城 ~藪に阻まれた岬の城~

能登半島のお城&道の駅めぐりをしたこの日、小丸山城を攻城した次は能登島へ向かいます。 能登島大橋。素晴らしい景観です。...

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小丸山城 ~利家の出世城~

小丸山城は、前田利家の出世城として知られているお城です。お城の場所自体は地図にも記載されているし、一目で明らかに城址という丘陵であったのでわかりやすかったのですが、登城口がいまいち不明で結局ぐるりと周囲を一周してしまいました。...

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滝田城 ~南総里見八犬伝の地~

里見八犬伝なお城、滝田城。「南総里見八犬伝」は、江戸時代に滝沢馬琴によって書かれた長編小説です。フィクションではありますが、実在の人物や場所も登場します。その1つが里見氏初代の里見義実と滝田城です。八犬伝では、里見義実が悪政を行う山下定包を討って、代わりに城主となったのが滝田城でした。そして滝田城で生まれたのが、八犬士の生みの親とも言うべき「伏姫」です。史実でも滝田城は里見氏の本拠地でありました。...

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宮本城 ~光り輝く鏡ヶ浦~

戦国時代に南房総に勢力をふるった里見家の二代目当主に当たる成義が延徳3年(1491)に稲村城の支城として築いた。成義は稲村城に長男の義通を、宮本城には三男の実堯を住まわせた。天文二年(1533)に起きた里見一族の内紛で四代目当主の義豊が敗死すると、稲村城とともに宮本城も廃城になったと伝えられているが、遺構の形式からみて、従来考えられていたより後年まで使用されていたと考えられるようになった。...

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プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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