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記事一覧

麻生加番所 ~栃本関の東を警固する~

栃本関から東進すると、観光案内板等が設置されているちょっとした駐車スペースが現れます。案内図より(上が南)栃本関所の表示のほかにもう一つ、麻生加番所の表記があります。...

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栃本関 ~秩父往還の関所~

秩父往還を雁坂峠側から秩父方面へ進むと、栃本の集落の一番端に栃本関の標柱と説明板が設置されています。目の前には「栃本関所跡」バス停。道路地図にも掲載されているので場所の特定自体は問題ありませんが、場所が分かってもここまで来るのはなかなか大変。駐車場はありませんので、周辺の路肩が広がっている場所を探して停車しましょう。関所の正面に停めるとおそらく通行の邪魔になります。...

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鉢形城(先行公開)

青鳥城・雉岡城・御嶽城・天神山城・高見城・青山城・騎西城・岩槻城・難波田城・etc.etc.・・・埼玉で先行公開したい城は他にも無数にあるが、ガチできりがないためこれでラスト。2007年登城時。100名城スタンプは資料館受付にて。整備復元が進んでいる様子。...

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川越城(先行公開)

川越城本丸御殿内。2008年から2011年まで保存修理工事が行われた。2007年に訪れ100名城スタンプもゲットしているが、最近になって再訪。同じところは極力再訪しないという私の基本方針に外れているようだが、前回は本丸御殿内しか見ていなかったため、今回の再訪はほとんど新規登城と同じ扱い。...

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花園城(先行公開)

藤田氏代々の居城・花園城。埼玉で竪堀が見事な城として、まず筆頭格に挙げられると思われる。城の東側山麓にある正龍寺。境内には花園城主藤田康邦夫妻の墓と鉢形城主北条氏邦夫妻の墓がある。また城の南麓には藤田氏の菩提寺である善導寺(別名藤田道場)もある。それぞれ本編にて紹介。...

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腰越城(先行公開)

歴史群像特別編集『戦国の城全史』にも掲載されている腰越城。麓から。正面の山の頂部に明らかに怪しい地形発見。この日は車から降りるのが苦痛なほどの酷暑日だった。この日の記事にもこの時の様子が少し記されている。...

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小倉城(先行公開)

比企城館跡群の一つとして国指定史跡となった小倉城。中世山城としては珍しく石積みが多用され、巧みな縄張りも良好に保存されている。ちなみに比企城館跡群として国指定史跡となっているのは小倉城のほかに菅谷館・杉山城・松山城。いずれ劣らぬ名城揃い。...

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松山城(先行公開)

近年「比企城館跡群」の一つとして国指定史跡となった松山城。全国各地に同名の城が多いため、武州松山城と呼ばれる。埼玉でも5指に入るであろう見事な中世城郭で、国史跡になったのも当然。すさまじいまでの縄張り。市野川を天然の堀とする要害立地ではあるものの、城が築かれた山自体はそれほど高くはない。人為的に形成された防御プランが、この城の評価を大いに上げている。...

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菅谷館(先行公開)

現時点において埼玉県で登城済の城館は約200城。これは都道府県別攻城数だと群馬に次いで多いところ。先行公開なので、その中から城好きにとって超が付くほどメジャーな城だけ掲載。(くどいようだが近世城郭のみ見る人は上記の城好きに含まず)国指定史跡・菅谷館。ここを訪れたのは大学を卒業し就職したての頃。この頃は中世山城をメインに攻略しまくっていた時期で、要害性だけで城の堅固さを判断していた。なので平地城館はそ...

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長浜氏館 ~田園に浮かぶ城館~

この地、大字長浜字城は、鎌倉時代より武威を振るった丹党の名族、長浜氏が居住した館跡と伝えられ、浮浜城とも呼ばれています。長浜氏は新里恒房の子三郎信光を祖とし、長浜の地名をもって家号としました。太平記によれば一族の長浜六郎左衛門光経(顕寛)は、南朝の忠臣新田義貞に仕え、最高軍事指揮官である侍所としての重責を担い鎌倉攻略をはじめ全国各地を転戦し、建武4年(1337)新田義顕と共に越前金ヶ崎城で討死しました...

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勅使河原氏館 ~神流川古戦場の直近~

勅使河原氏の先祖は丹党である。七党系図に勅使河原丹次郎直時あり父を秩父丹五基房という。直時1075年頃この地に移居し地名をもって家号とした。これが勅使河原氏の起りである。勅使河原氏は直時の子を弥四郎直兼と称し、その子権三郎有直、同四郎有則といいともに源頼朝に仕えた。一族の働きは素晴らしく『盛衰記』『吾妻鏡』『太平記』その他多くの書物にのっているが、その戦いぶりは武蔵武士の代表といっても過言ではない。13...

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金窪城 ~神流川合戦で炎上~

この日訪れた石碑級城館(ほとんど碑や説明板だけしかないようなところ)の紹介、まだまだ続きます~今のうちに紹介しておかないと、来月あたりはちょっと忙しそうなことになりそうなので・・・さて、続きましては県指定史跡・金窪城!金窪城跡は、神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名太瑯(たや)城とも呼ばれた。平安末期の治承年間(1177~81)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治の構築と伝えられ、元弘年間(1331~...

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本庄城 ~古今の役所~

本庄城は弘治2年(1556)本庄宮内少輔実忠により築城されたといわれている。本庄氏は、山内上杉氏に属したが、永禄10年(1567)に後北条氏に攻められ落城し、後北条氏に服したが、家忠の子隼人正の代に至って天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻めにより落城した。徳川家康の関東入国に伴い、信濃国松尾の城主小笠原信嶺が1万石を賜って新城主となったが、慶長17年(1612)その嗣子信之の代に古河城に移封され、本庄城は廃された。元...

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西別府館 ~別府氏、西の居館~

別府城の西側、西別府地内にあったのが西別府館です。別府城の説明板にあった内容の再掲ですが、成田助高の二男である次郎行隆が平安時代末期に別府を本拠とし、その子二郎行助が西別府に居を構えます。行助は西別府氏を名乗り、5代頼重までこの館にあったといいます。...

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別府城 ~別府氏の居城~

別府氏は、成田氏系図によると、成田助高の二男次郎行隆が別府に住んでから、その子太郎能幸は東別府に、二郎行助が西別府に数代相対して領知した。この城は、東別府家の館として、東西南北ともに約一町(百余m)四方で、周囲には巾約2~3mの横濠(現在は西、北、東側に残っている)をめぐらし内側に高さ約2mの土塁を築き、中世の武士の館跡として典型的な形を見る事が出来る。太郎能幸に初まった東別府家は、それから11代目の...

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別府氏館 ~別府氏、東の居館~

別府氏と言っても、九州の有名温泉地とは全く関係ありません。埼玉県熊谷市、R17深谷バイパスとR17旧道に挟まれた地域は、かつて成田氏の一族・別府氏が本拠としていたところです。東別府にある香林寺もかつての別府氏の居館跡で、平安時代末期に別府能幸がここに居館を構えたのに始まります。...

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忍城② ~水の城、いまだ落城せず~

博物館に入ります。残念ながら有料です(当たり前だ)。...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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