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記事一覧

岡豊城② ~鳥なき島の蝙蝠~

長宗我部元親について③土佐一国を統一する大名に成長した元親は土佐の出来人と呼ばれた。土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた。一方で織田信長は元親について、慣用句から「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶...

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岡豊城① ~姫若子から鬼若子へ~

長宗我部元親について①天文8年(1539年)、岡豊城で生まれる。長宗我部国親の長男で、母は美濃斎藤氏の娘。幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいたという。(wiki参照)県立歴史民俗資料館をいそいそと退出し、最終日のメインとなる岡豊城の探索に入ります。「長...

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高知城⑥ ~南海の名城~

詰門前に戻ってきました。ここからは先ほど飛ばした三の丸を経由して城の搦手口を目指すことにします。 三の丸                 さっきの若い子たち...

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高知城⑤ ~全国唯一の完存本丸~

その④では天守最上階から見た南・東・北側の光景を紹介しました。残った西側からは本丸内が一望できます。西側 本丸内の様子左上から時計回りに黒鉄門、黒鉄門西北矢狭間塀、西多聞、廊下門、東多聞と続き、天守下に連結しています。廊下門はその②でも一度触れましたが、これら建築物はそれぞれが城内に15棟ある国重文の一つです。本丸は標高44.4m、変形の土地で総面積は約1,580㎡。その中に天守をはじめとして本丸御殿・納戸蔵・...

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高知城④ ~4重6階の現存天守~

現存天守の一つ・高知城天守。もちろんこの天守も城内に15棟ある国重文の一つ。以下高知城天守についてwikiの記述。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可を得て造ったものといわれている。創建時のものは享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとってい...

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高知城③ ~現存本丸御殿・懐徳館~

それではいよいよ建物内へ入ります。 忘れちゃいけない100名城スタンプは入口の受付にて。シャチハタタイプで良好、97箇所目を無事押印。ラスト3。通常スタンプもあるのであわせて押印。...

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高知城② ~土佐24万石の中心~

ここで高知城の沿革について。大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城(または大高坂城)があったとされる。付近の豪族・大高坂氏によって築かれたとされるが、定かではない。記録上では、大高坂松王丸が居城したことが知られている。松王丸は南朝方に付き、延元3年(1338年)には後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎えている。しかし興国2年(1341年)、松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦って敗北、大高坂山城は落城した...

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高知城① ~偉人たちのお出迎え~

高知共済会館を出るとすぐに高知県庁前面にめぐらされた水堀に出会います。現在地はココ...

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浦戸砲台 ~月の名所に設置された砲台~

月の名所・桂浜の探索終了。次は高知市街に移動ですが、その前にもう一つ、この場所で紹介しておく史跡があります。龍馬像へ登っていく階段の脇にある平場と説明板平場背後の斜面には石積が見られます。...

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浦戸城 ~桂浜を見下ろす長宗我部氏最後の本拠~

蓮池城を後にし、R56で土佐市から高知市へ。r36~r14(北部進入道路)~r14(黒潮ライン)を経由し、一路有名観光地・桂浜へ。黒潮ライン桂浜の駐車場は有料ですが、桂浜公園内にある坂本龍馬記念館の駐車場は無料であるということは事前にリサーチ済み。なのでまずはそこを目指します。龍馬記念館は桂浜近くにあるちょっとした山の上にあり、駐車場には多くの車が止まっていましたが、無事空きスペースを見つけて駐車すること...

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蓮池城 ~400年の興亡を繰り返した城~

須崎からR56で土佐市へ。次なる目的地は土佐市にある蓮池城。高知道土佐IC南にある城山公園が跡地となります。国道沿いの城山公園入口しっかり案内表示もされていてわかりやすい。では早速突入・・・...

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須崎城 ~長宗我部元親三男・津野親忠の居城~

須崎の町並みの北に聳える標高140mほどの山、その名も城山。この山上に、この地を治めていた津野氏によって築かれた須崎城がありました。築廃城時期や城主などの詳細は定かではありませんが、津野忠親・山内右衛門大夫の土居が山麓にあったといいます。そういえば須崎八幡宮の説明板にも津野忠親の名前が記載されていましたね。姫野々城を本拠とした津野氏は土佐七雄の一つとして高岡郡一帯を支配していましたが、長宗我部家が勢...

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土佐藩中砲台 ~須崎3か所の砲台の一つ~

道の駅で入手した史跡めぐりマップによると、須崎砲台(土佐藩西砲台)跡の前の道を真東に進むと「土佐藩中砲台跡と寺田寅彦療養の地」というスポットがあるらしい。ということで狭い道をまっすぐ東へ。マップでは「須崎保育園」を過ぎたあたりが目的の場所となっているが、その保育園が見つからず、代わりにシルバー人材センターの建物を過ぎたところで説明板を発見。ここもあれですか、少子高齢化の影響で保育園が老人施設に変わ...

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須崎砲台 ~竜馬も入港した土佐藩砲台~

道の駅「かわうその里すさき」から、須崎の街中の史跡巡りを開始します。まず向かったのは当初の予定にもあった国指定史跡・須崎砲台跡(土佐藩砲台跡)。道の駅で入手したマップには「土佐藩西砲台跡」と記されており、現在は西浜公園として整備されています。西浜公園着。南側には線路と路地を挟んですぐ海が広がります。周辺に駐車場はなく、周辺路地も写真のように狭いので、すれ違い可能になるよう極限まで寄せての路駐。でか...

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中村御所 ~名門土佐一条氏の居館~

土佐一条氏が幡多荘を治める拠点として築いた居館が中村御所です。土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向したことに起源を有する。鎌倉時代末期から室町時代にかけて敷地氏・布氏・入野氏などが幡多荘の押領をもくろみ、更に戦乱による所務不振に悩まされることになり、その安定化を図る目的もあったと考えられる...

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中村城 ~土佐の小京都を守る城~

四万十市は平成の大合併で誕生した市で、その市街部分は旧中村市の中心街であります。この街はかつてこの地を治めていた土佐一条氏により京都を模して碁盤の目状に区画された名残が残っており、土佐の小京都として知られています。この旧中村市中心市街地の北西にある標高70mほどの山上に築かれたのが中村城で、現在は為松公園となっており、天守外観を模した資料館も建っています。栗本城から眺めた中村城山上の鉄塔の建っている...

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栗本城 ~一条兼定、再起ならず~

足摺テルメでお土産購入後、ここから一気に本日の宿営地・四万十市の中心部へ向かいます。土佐清水の市街地までは行きとは別の足摺スカイラインを使う手もありましたが、効率性をとって行きと同じr27パイパスルートを選択。再び鹿嶋砲台の前を通過し、「サニーマート」前で今度は右折しR321を北上。あとはひたすら道なりに走れば四万十市街地へ到着です。この時期は日が長くまだ十分に探索可能な時間なので、近辺にある城館を探索...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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