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記事一覧

観音山小栗邸 ~小栗の眺めた景色~

2018年1月 倉渕探訪ファイナル木戸沢番所の探訪後、ナビを見ると近くに鬼神岩の表示があったのでついでに訪問しようとしたものの、山中を彷徨い時間と体力を消耗しただけで失敗。この探索については城館の在庫がなくなって気が向いたら記事にするかも。気を取り直して続いて訪れたのが観音山小栗邸。小栗上野介についてはここでは改めて紹介はしません。この記事やこの記事などで軽く触れていますが、いずれ特集でゆかりの地をま...

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木戸沢番所 ~二度上峠からの間道を警護~

2018年1月 倉渕探訪ファイナル1月下旬の快晴の日、旧倉渕村の城館コンプリートを目指して出陣。R406で烏川沿いを遡り、権田交差点を左折しr54へ。二度上峠へ続くこの道を走るのは2014年夏の浅間隠山登山の時以来。その浅間隠山さすがの貫禄。ちょうど進行方向正面に見え隠れし、頂上付近はうっすら白くなっています。...

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権田城② ~大軍駐屯地に改修?~

2017年12月 大戸・権田探訪高崎市指定史跡・権田城!この城を訪問するのはこれが3度目。特別な事情がないかぎり一度訪れたところには極力再訪しないことを唯一の信条としている私としては異例中の異例。これまでの経緯を振り返ります。1度目の訪問は2007年冬。ちょうど10年前のことになりますか。先人たちの情報を頼りに道路地図に印をつけ、それをもとに城域にまでは達したものの城の表示物を発見することができずに撤退しており...

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権田住政重屋敷 ~上州権田住刀工~

2017年12月 大戸・権田探訪倉渕町権田の権田駐在所から高崎側に100mと離れていないところにあったのが刀工・上州権田住政重屋敷跡。国道沿いに説明板が設置されています。説明板刀工権田住政重は戦国時代から江戸末期までその系譜をもつ刀鍛冶であり、刀銘は古刀期から「政重」があり、江戸期に入ると「金重」の銘も見られます。権田政重の系譜を継ぐ蟻川若狭守は、北毛の鍛冶職人を統括し、沼田の土岐市や川越の松平氏に仕えて...

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岩崎城 ~岩崎神社と弁天池~

旧吉井町の城館探訪本郷城の北東1.2kmほど、鏑川北岸の小さい山稜上に築かれたのが岩崎城。岩崎山密蔵院覚性寺に所在する位牌等から岩崎入道(左衛門)が居城していたとされますが、岩崎氏についての詳細は不明。   城の築かれた山稜の南麓には岩崎神社があるのでこれを目標にするとわかりやすい。神社境内裏には妙に高い石塔があったりして目を引いたりします。...

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本郷城 ~古墳の櫓台~

旧吉井町の城館探訪塩川城から北西800mほど、鏑川に面した河岸段丘突端に築かれたのが本郷城。沿革等詳細は不明で、永禄6年(1563)の武田信玄の侵攻により落城したといいます。城域内には遠目からも目立つ古墳があります。主郭東側にあるこの古墳は本郷城の物見の櫓台(「辰のやぐら台」)として利用されていたとのこと。案内表示等はありませんが「マッピングぐんま」には「丸木山」の記載があります。鏑川に面した台地上にはこ...

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塩川城 ~陽気軒のジャンボ餃子~

旧吉井町の城館探訪吉井陣屋の北西600mほどにあったのが塩川城。永禄6年(1563)の武田信玄侵攻時の城主は菅沼大膳之孝(之常)で、徹底抗戦したものの寡兵のため遂に落城したといいます。 西から来る武田軍を防ぐ防衛線であったであろう大沢川。塩川城はこの川のすぐ東に築かれていましたが、遺構は宅地化により完全消滅しています。...

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神保植松城 ~完全消滅と思いきや~

旧吉井町の城館探訪多胡下城から700mほど北西にあるのが神保植松城。表記は他に植松城、神保城とも。すぐ西にある神保館との混同を防ぐためここでは神保植松城を採用します。辛科神社神官神保氏の居城であったと推定されています。 肝心の城の主要部分は上信越自動車道の建設により消滅しています。上信越道沿いにはそういった城館がいくつかありますね。写真は「植松橋」から眺めた主郭があった付近。...

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多胡下城 ~猛烈藪地獄~

旧吉井町の城館探訪別名金沢城とも。多胡氏が築いた城とされ、「多胡上城」の別名を持つ八束城との関わりもあるとされますが、詳細は不明。場所は多胡城の南方1㎞強ほどの丘陵の頂上。上信越道を越えるとすぐに城域へと伸びる林道があるのでそこを進む。すれ違い不可の狭路ですが、奥の肥料置き場へ行く以外事実上通行はない道なので、でかい車以外なら何とか進めるでしょう。地図では頂上まで細い車道が繋がっているように見えま...

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多胡城 ~多胡館との関連不明~

旧吉井町の城館探訪矢田代官所・矢田城から1㎞ほど西に位置するのが多胡城。多胡館のすぐ北側といったほうが話は早いかもしれません。吉井中学校の南西に張り出している舌状台地の先端に築かれています。大系には柳沢氏が在城したとありますが、その詳細は不明。名称も大系の多胡城をはじめ多胡城山、多胡砦、多胡の砦と資料によってまちまち。ここでは大系の多胡城で掲載しますが、規模的には砦のほうがより適切でしょう。南東側...

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矢田代官所 ~陣屋との関係は・・・?~

旧吉井町の城館探訪矢田城のすぐ北に隣接する形で築かれたのが矢田代官所。矢田城から矢田陣屋に発展する中で別個代官所が設けられたものとされますが、矢田陣屋と矢田代官所との役割の相違や互いの存立時期については不明な部分も多いです。『城郭大系』ではこちらの代官所のほうを「矢田陣屋」と表記しているのでますますややこしいところ。ただ大系をはじめ『吉井町誌』『中世吉井の城館跡』ほか各種資料や「マッピングぐんま」...

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矢田城 ~中世城郭から近世陣屋へ~

旧吉井町の城館探訪峯山城からまた沢を一つ挟んで南西800mほどの場所に築かれたのが矢田城。築城年代は定かではありませんが、近世以前に小林氏によって築かれたとされます。小林氏は菅沼定利の入封によりその配下となりました。その後近世に入っても中世矢田城は近隣を治める拠点として形を変えつつも存続し、宝永6年(1709)松平信清が三千石の加増を受けて一万石となり矢田藩が成立した際にはその陣屋となりました。しかし宝暦...

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峯山城 ~山内上杉家臣富田氏の居城~

旧吉井町の城館探訪小串城から土合川を挟んでの800mほど西方の丘陵上に築かれたのが峯山城。『城郭大系』の表記は峰山城で、当サイトでは表記が割れた場合は大系の表記に準ずることが多いですが、ここでは主に参照した『吉井町誌』『中世吉井の城館跡』等の資料や「マッピングぐんま」の表記である峯山城で掲載します。築城は文明7年(1475)、関東管領山内上杉氏家臣の富田民部小輔吉政により行われたとされます。永禄6年(1563...

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小串城 ~カタクリの里~

旧吉井町の城館探訪小串館の南方500mほどの丘陵上に築かれたのが小串城。小串氏の詰城であるという。北側から丘陵を登ると、丘陵上は一面の畑。これは先人たちの記録の通り。...

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小串館 ~南北朝期の石仏が鎮座~

高崎市の旧吉井町には資料にあるだけでも40ヶ所近くの城館が確認されており、紛い地を含めるとその数はさらに増えることになろうかと思われます。そのうち当サイトで現時点で公開済みとなっているのは長根城、一郷山城、奥平城、多胡館、新堀城、馬庭城、天久沢陣城、神保館、吉井陣屋、馬場城の10城館(+掲載途中でストップした八束城を加えた11城館)のみ。ということでしばし旧吉井町の城館の在庫処理を行います。まずは吉井町...

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鷹留城③ ~長野氏累代が眠る~

その②鷹留城、ようやく完結編。丸一年間が空いてしまったため、もう一度沿革掲載。永禄4(1561)年、名将業政も老齢には勝てずに没した。業政は「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と遺言したと伝わっている。同年、越後の上杉謙信が越山して関東に進出し、関東に残る上杉方...

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湯殿山城③ ~千古不易~

その②尾根を登っていきます。左手は烏川に面した断崖。...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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