記事一覧

鵜殿城 ~熊野水軍の拠点の一つ~

京城を後にし、相野谷川沿いを下っていくと熊野川に合流。川の向こうは和歌山県。三重県の南の端までやってきたことになります。やたら南北に長い県だった。もはや完全に日没となりましたが、わずかに明かりが残る間に本日ラストの城・鵜殿城へ。R42熊野街道を紀宝町役場方向へ東進すると、矢渕中学校の手前で熊野川に突出するように山がせり出していますが、この山上には鵜殿城の詰め城とされる飯盛口城があります。...

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京城 ~新宮城主堀内安房守築城~

尾呂志城を後にし、r62~オレンジロードでトンネル越えして紀宝町へ。大里地区の相野谷中学校東側の小山が京城(みやこのじょう)の跡というが・・・相野谷中学校から東側の城山を望む経験則上、麓に学校がある山城は学校周りに説明板があることが多いため、学校周囲を一周するも城の表示物なし。ついでに北側にある相野谷小学校さらには城山の周囲を回ってみるもやはり表示物なし。...

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尾呂志城 ~上野の大杉が鎮守する~

川瀬城の南東にある尾呂志学園小中学校の周辺が尾呂志城の跡地です。学校北側の道路に掲示されている説明板尾呂志城は入鹿氏から分かれて尾呂志の地頭となり尾呂志氏を名乗った者により築城されたもので、元は御浜町役場尾呂志支所付近にあったが、土地が狭いため、永禄年間尾呂志氏4代孫三郎(隠居して慶閑と称す)の代に現在の尾呂志小学校の地に移転した。 城の規模については諸説あり、「続風土記」には東西26間(約47m)、南...

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川瀬城 ~必要以上に立派な城址碑~

赤木城を後にしたのが16:30。10月は実はそんなに日が長くないので、そろそろ日没も近い状況ですが、ここから粘るのが私の登城スタイルの真骨頂。来た道を戻り、R311風伝トンネルを抜けてすぐの県道を右折(南へ)。100mちょい南へ進んだところに石碑を発見。川瀬城城址碑立派な城址碑ですが、隣には五輪塔や石の台座があるだけで、城に関する説明が一切ありません。石碑の裏に説明が刻まれているケースもよくあるので確認したの...

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赤木城② ~山奥に眠る総石垣の城~

主郭は城の最高所にあり、方形に近い台形をしています。内部に残っている礎石も大きく、他の郭より立派な建物があったと考えられています。主郭からは周囲の風景を一望できます。山深い風景このような山奥ではありますが、この周囲は古来より銅などの鉱山資源に恵まれ、中世には刀鍛冶が盛んに行われていました。森林も豊かで戦国期にはたびたび熊野の木材が切り出された記録が残っています。...

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赤木城① ~行ったら戻らぬ赤木の城へ~

すっかり日も傾いてしまいましたが、ようやく本日のメイン城郭に到着。国指定史跡 赤木城いや~、とんでもなく訪れにくいところですよココ。はっきり言って大阪から東京へ行くより、大阪からここまで来ることのほうがはるかに大変なことでしょう。紀伊半島を一周する高速道が全区間開通すればだいぶ状況も変わるのでしょうけれどね。...

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鬼ヶ城 ~鬼の見晴らし台~

名勝のほうの鬼ヶ城の探索を終え、続いては城砦としての鬼ヶ城の探索に向かいます。この後の予定が詰まっているので、できるだけ短時間で済ませたいところですが・・・駐車場にある登り口。熊野古道にも繋がっているようで、杖の貸し出しもあります。私は写真を撮影する都合上手ぶらのほうがいいので持っていきませんでしたが、熊野古道を歩く方は利用したほうがいいかもしれません。...

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三瀬館 ~剣豪国司北畠具教の最後~

伊勢国司8代北畠具教が大河内城合戦の後に隠居所として築いた館が三瀬館です。またの名を三瀬御所、北畠館とも。若干遠回りしたものの無事到着。最下段には石垣が築かれていますが、どこまでが往時のものかは不明。北畠具教の幟があり、地元として推そうという意識はあるようです。...

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茶臼山砦 ~伊勢国司隠棲の地の見張り台~

三瀬砦に続き、伊勢国司北畠具教の隠棲の地・三瀬館に向かおうと車を走らせます。国道沿いに案内表示もあり、これは迷わず到着すると思ったのですが・・・ どっちなんや・・・...

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三瀬砦 ~旧主・北畠具教を襲った長野左京進の城館か~

三瀬砦は下三瀬城、三瀬左京館ともいい、この地の豪族で北畠氏に仕えていた三瀬左京祐の居城とされています。戦国時代、織田信長に追われた8代伊勢国司北畠具教が三瀬館を構えた際、三瀬氏は三瀬砦において三瀬館守護の支柱になったと伝わります。大平町下三瀬地区でR42熊野街道から一本南の県道(旧熊野街道)へ。県道沿いにあった表示県指定史跡三瀬砦跡←に従い南に折れます。...

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主神城 ~霊験あらたか?~

玉城町からr13~R42熊野街道で熊野方面へ。大台町に入りしばらく進み、ちょうど紀勢道の下を交差する手前にそれはあった。謎の天守発見調査の結果、これは主神城と呼ばれていることが判明。...

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田丸城③ ~中世と近世を併せ持つ城~

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いののち、松ヶ島城主となった蒲生氏郷の支配下に入る。天正18年(1590)の奥州仕置において蒲生氏郷が陸奥国会津に移封されると、妹婿となっていた田丸直昌も与力大名として陸奥に移動した。江戸時代初頭には稲葉道通が入り田丸藩となる。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるが、元和5年(1619)、徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。遠江久野城城主であった付家老久野...

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田丸城② ~南朝の拠点から織田氏伊勢支配の拠点へ~

田丸城は南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる平山城である。伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、1342年(康永元年)、足利尊氏によって落城する。その後、室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。北畠家の庶流で、第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗った。戦国時代、田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の...

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田丸城① ~伊勢神宮を抑える要衝~

紀伊半島一周の旅2日目。松阪市内のホテルを出発し、本日初めの目的地である田丸城へ向かいます。玉城町役場を目指せばいいので場所は非常にわかりやすい。玉城町役場役場が建っているこの場所はすでに城域内。大きく「熊野古道伊勢路出立の地 玉城」と掲示されています。町のHPによると、この地は神宮(伊勢神宮)の鎮座とともに神領になり、倭姫命(やまとひめのみこと)に随行して皇大神宮(こうたいじんぐう)の祢宜(ねぎ)...

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松坂城③ ~城のある町にて~

きたい丸から本丸上段の裏側へ。  本丸上段の北側下には藤見櫓跡・鐘ノ櫓跡が守りを固めています。...

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松坂城② ~蒲生氏郷が築いた総石垣の堅城~

1584年(天正12年)近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城した。1588年(天正16年)氏郷は、松ヶ島は伊勢湾に面し城下町の発展性がないと考え、飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始した。工事は領内の寺社を取り壊して転用し、急ピッチで年内に完成させた。城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に本丸を配し、その南側に二の丸が置...

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松坂城① ~再訪の陣・御城番屋敷~

本日のラストは松阪市大阿坂町にある阿坂城の登城を予定していましたが、思いのほか時間が押して日も暮れてきてしまったので、百名城の松坂城の探訪に切り替えました。松坂城は2009年の7月に登城していているので、6年と3か月ぶりくらいの再訪になります。よほどのことがない限り極力再訪はしない主義の私ですが、前回登城時の写真が本公開前に消滅してしまったので、この機会におさらいと写真再取得をしようと思い立ったわけです...

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プロフィール

KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日生野菜摂取しないと死ぬ。
© 2010 城館探訪記

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