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記事一覧

朝倉氏館(先行公開)

まだ日の出前、霧の立ちこめる一乗谷。英林塚方面からの光景。一帯に広がるのが特別史跡である一乗谷朝倉氏遺跡。...

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金ヶ崎城③ ~巌なめらかなり~

かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり(出典・「太平記」)「なめらか」という言葉は、印象としては険しさと直には結び付きませんが、周囲の切り立った様子を「物の表面にでこぼこがなくて、すべすべ、また、つるつるしているさま」という意味を持つこの言葉をあえて用いて表現しています。 この城が天然の要害の地であったことをうかがわせる記述です。...

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金ヶ崎城② ~金崎宮の由来~

金ヶ崎城敦賀市北東部、海抜86メートルの敦賀湾に突き出した小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城である。 源平合戦の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀...

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金ヶ崎城① ~天下取りへの転換点~

金ヶ崎の戦い金ヶ崎の退き口・金ヶ崎崩れとも呼ばれる戦国史上でも有名な撤退戦の一つ。元亀元年4月20日(1570年5月24日)、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京を出陣。4月25日(5月29日)、越前の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御...

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天筒山城 ~ただの展望台にあらず~

天筒山城(てづつやまじょう)は、金ヶ崎城の枝城で標高約171mの天筒山に構築された山城である。金ヶ崎城とは稜線伝いに繋がっている。元亀元年4月25日、織田軍(10万人)に攻め込まれ、双方数千の戦死者が出る戦いとなったが陥落し、朝倉景恒は金ヶ崎城に陣を引くことになった。現在は公園化されており、曲輪、櫓台跡などが残る。(Wiki参照)...

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敦賀城 ~真の義将・大谷吉継~

1575年(天正3年)に織田信長により越前は平定され、1583年(天正11年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭。その家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り敦賀城を築城した。しかし頼隆は九州征伐中に病死したため、1589年(天正17年)には秀吉家臣団でも知将の呼び声高い大谷吉継が5万7000石で敦賀城に入城した。また大谷吉継の前に秀吉の甥である豊臣秀勝が城主となったという説があるが、定かではない。吉継...

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福井城② ~将軍になれなかった悲運の御曹司~

結城秀康は、親の愛に恵まれなかった一生であったといわれている。...

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福井城① ~68万石の居城~ 

北ノ庄城から福井城へ移動。...

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北ノ庄城 ~秀吉に最後まで屈せず~

福井駅のすぐ西側に、北ノ庄城址・柴田公園があります。偶然にもここを訪れた日は、同じ福井の丸岡城を訪問したちょうど1年後のことでした。...

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丸岡城② ~笏谷石製の石瓦~

いよいよ天守に入ります。その前に展示が。...

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丸岡城① ~一筆啓上~

2008年3月、北陸唯一の現存天守丸岡城へ初登城。天正4年(1576) 織田信長の家臣で、越前ほぼ一帯を領していた柴田勝家の甥である勝豊により築城され、勝豊はそれまでの豊原寺城から当城に移った。天守の建造年については天正4年の築城と同時に建立されたというのが通説で、その説を採れば現存天守の中では日本最古となります。一方で、建築様式から慶長後期の本多成重時代に建てられたという説もあります。...

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KD

Author: KD
由緒ある建造物、急峻な山城、遺構の残っていない平地城館、考証無視の模擬天守、すべて等しく探訪対象。一番好きな瞬間は超マイナーな城館で城址碑や標柱を見つけたとき。毎日欠かさず生野菜摂取中。
© 2010 城館探訪記

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